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トップ > メドック地区 第1級のビンテージワイン > シャトー・ラフィット[シャトーの歴史]
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シャトーの歴史 |
「ラフィット」という名が聞かれるようになるのは、1234年、ポーイヤック北部のヴェルトゥイユ修道院長、ゴンボード・ド・ラフィットの登場から。中世になって領土の名前として登場するのは14世紀に入ってからのこととなる。
素晴らしいワインを造るシャトーとしての評判が高まったのは、17世紀、セギュール家が葡萄畑を作ってからのことだ。1716年、ニコラ・アレキサンドル・ド・セギュール侯爵は、ラフィットの成功を確実なものにするため、ワイン造りの技術の改善に取り組む。その成功により“葡萄の王子”と呼ばれるようになった。
この頃のラフィットの名声は、特に海外とヴェルサイユ宮廷で顕著で、ルイ15世が嗜む“王のワイン”として、誰もが欲するステータスシンボルのような存在となる。ルイ15世の寵妃ポンパドール夫人の晩餐会にも供され、後の寵姫バリー夫人も“王のワイン”以外は飲まないとしたほどだった。
また、その当時、ヴェルサイユ宮廷にアメリカ共和国大使として駐在していた、後のアメリカ合衆国大統領トーマス・ジェファーソンもラフィットを愛した一人だ。ボルドーワインの愛好家だったジェファーソンは、祖国でのワイン造りを思い立ち、ワインの研究を重ねた。情報を集め、後に主要ワインとして4つのワインが選ばれたが、その一つがシャトー・ラフィットだったという。
革命などによって所有者は幾多の変遷があったが、常にラフィットの高い評価は変わらなかった。1815年、仲買業者のギョーム・ロートンが、メドック地区のワインの私的格付けを発表したのだが、当時からすでにリストの上位に位置し、「ラフィットを、3つの(一流ワイン)の中で、最も上質の葡萄を使った、最も優美で、繊細なワインと評価した」「メドック地区で一番優れたワイン」という評価をされている。
また、1868年のヴィンテージは、あらゆる意味で記録に残るものとなった。そのヴィンテージイヤーのワインの中で最高値がつき、1トノー(900リットル、225リットルの樽4個分)の値段が、当時の金額で「6,250フラン(現在の4,700ユーロ)」という高値をつけたのだ。この記録は、20世紀の終わりに破られたが、19世紀の最高値として今でも記録に残っている。
しかし、19世紀末〜20世紀前半には、ラフィットは様々な苦難に襲われた。葡萄畑が「フィロキセラ(葡萄の根の寄生虫)」とカビが原因の「ウドン粉病」「ベド病」の被害にあった。さらに、産地を偽った組織的詐欺が急増し、主要ヴィンテージに被害を与えたのだ。第一次世界大戦の勃発や世界大恐慌の発生も重なり、市場は底値が続き、ラフィットも前代未聞の経営危機を招いて葡萄畑の縮小に踏み切らざるを得なかったのだ。後の第二次世界大戦には、メドック地区はドイツ軍に占領されるなど、苦難の時代が続いた。
戦後になって、エリー男爵の指揮の元でようやくシャトーの再生が手がけられる。荒廃した葡萄畑と施設を再生し、シャトーの管理体制の全面的な見直しも始まった。その後、運営を引き継いだエリック・ド・ロートシルト男爵によって、新たな名声が確かなものとなる。
エリック男爵は、素晴らしいワイン造りのための研究を行い、新しいテクニカルチームの人材を徐々に増やし、シャトーの運営に新しい空気を取り入れた。
葡萄畑では、肥料の与え方の見直しや除草剤の限定使用によって、植え替えや再建作業が進められた。醸造所では、オーク樽の横にステンレスタンクが設置され、2,200樽の収容能力を持つ熟成用の円形貯蔵庫が、カタロニア人建築家のリカルド・ボフィル監督のもとで建築された。
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