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トップ > メドック地区 第1級のビンテージワイン > シャトー・マルゴー[シャトーの歴史]
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シャトーの歴史 |
シャトー・マルゴーの歴史は、シャトーに残る資料にも詳しい記述は残っていない。12世紀頃に“La Mothe de Margaux”(ラ・モット・ド・マルゴー)という畑の名称の記録があるが、その頃にはまだブドウは植えられていなかった。今日のようなワイン作りのシャトーとしての歴史は、1572年〜1582年に、レストンナック家の一人であるピエール・ド・レストンナックが、それまで植えていた穀物を見限ってブドウを植え始めたことによって始まった。
その後、イギリス人やオランダ人が、“クラレ”と呼ばれていた当時のボルドーワインを飲み始めたが、当時のワインは気の抜けた、熟成させることが出来ないワインだったという。そんな中、マルゴーではすでに本格的なワインを作っており、同地区の他のシャトーとは一線を画していた。
この時代に重要な転機となったのが、「ベルロン」という支配人の行った数々の改革だった。当時のブドウ畑では赤用と白用のブドウが混植されていたのだが、彼はそれを一番最初に分けて植え始めたのだ。また、土壌の区画分けの重要性やブドウの収穫時間に関しても様々な試みを行い、マルゴーのワインの品質はますます高まっていった。
18世紀に入ると、オークションで有名なクリスティーズのカタログにボルドーワインとしては初めて掲載されるなど、その知名度は一層高まった。イギリスの初代大統領であるロバート・ウォルポールも「3ヶ月毎に4樽」という頻度で購入し、ワイン通として知られている、後のアメリカ大統領トーマス・ジェファーソンによる個人的な格付けでは、すでに「1級」とされていた。
しかし、後のフランス革命では、当時のシャトーの所有者であり、アルジクール伯爵であったエリー・デュ・バリーは処刑され、マルゴーのブドウ畑や領地は国家の所有物としてオークションに出された。革命の混乱のうちに、何度も所有者が代わることとなった。
スペインから戻ってきたバスク人で、コロニーア侯爵の称号を持つベルトラン・ドゥオットが所有者となると、当時は見栄えのしなかったゴチック調の城を、今日シャトーマルゴーで見られる、綺麗な新パラディオ主義建築の城館に建て替えを行った。この建築様式はフランスでも非常に珍しいもので、しばしば“メドックのベルサイユ”と称されている。1946年には歴史的建造物として認定され、今日でもその美しさを世界中から訪れる人々に見せている。
1855年のパリ万博で行われたシャトー格付けでは、マルゴーは1級に選出された。ジロンド県ワインのテイスティングでも、20点評価で満点の20点を獲得した、唯一のシャトーとなり、その名声はますます広まった。
しかし、19世紀後半のべと病被害、1930年代の世界大恐慌など、その後のマルゴーは次々と困難に見舞われ、出来の悪いヴィンテージが続いたために一時的に元詰めを止めた年まであった。1970年代にもヴィンテージが不作が続いた年があり、そのたびに所有者は入れ替わった。
中国、インド、パキスタンなどとの貿易で財を成したギリシャ人のアンドレ・メンツェロプーロスが所有者になると、品質向上のための多大な投資を行う。ブドウ畑へのドレインパイプ設置や品種の植え替え、新しい樽貯蔵室を作るなど、数多くの設備投資を行った。また偉大な醸造学者であった元ボルドー大学教授のエミール・ペイノーをコンサルタントとして招聘、ブドウの選果の基準の引き上げ、100%の新樽による熟成などの改革を始めた結果、1978年は非常に優れたヴィンテージとなったのだ。
彼の死後、実の娘であるコリーヌがシャトーを引き継いだ。ワイン作りに関しては全く知識が無かった彼女であるが、周りのスタッフの支えもあって、素晴らしいワインを生み出し続けた。資本増強のため大手からの資本参加などを受けながらも、今日も彼女は筆頭株主としてシャトーマルゴーの経営を続けている。
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