|
||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||
|
トップ > メドック地区 第1級のビンテージワイン > シャトー・オー・ブリオン[シャトーの歴史]
|
|||||||||||||||||
|
|
|||||||||
シャトーの歴史 |
ジャン・ドゥ・ポンタックが、シャトーの創始者となったきっかけは、結婚の際に妻が現在のオー・ブリオンの土地の一部を持参したことだった。その後少しずつ周囲の土地を買い集め、1550年にワイン醸造のための設備を作り、正式にシャトー・オー・ブリオンが誕生した。
その後、アルノー3世の代に初めてイギリス市場に参入、次の代には、オー・ブリオンの名声を高めるために活動拠点をボルドーからイギリスに移す。1666年、ロンドンに「l'Enseigne de Pontac」という居酒屋を開くと、瞬く間にこの店は評判となり、“ロンドンでただ一つの小粋な店”と呼ばれるようにまでなった。オー・ブリオンは、特定の畑名で売り出された最初のボルドーワインとなったのだ。
その後、様々なオーナーの手を経て、ジョゼフ・ドゥ・フュメルがドメーヌを譲り受けた頃に大きな転機がやってきた。軍隊を退役した彼は、1763年よりオー・ブリオンの経営に没頭し、オレンジ畑、広大な庭園、その他様々な建物を作るなど、シャトーの美化に努める。また海外へのワイン輸出にも力を入れ、イギリスへの輸出量を増やしただけでなく、スウェーデンなどにも目を向けていた。
しかし、フランス革命が勃発、ドメーヌへの被害はほとんど無かったのだが、オーナーのジョゼフ・ドゥ・フュメルは、これまでのイギリスとの取引関係などが革命委員会の目に留まってしまい、断頭台へ登ることとなってしまった。
オー・ブリオンは国有財産として競売にかけられてしまい、ナポレオンの外相であったシャルル=モーリス・ドゥ・タレイラン=ペリゴールなど、所有者は次々と入れ替わった。
そして、1836年、競売にかけられていたオー・ブリオンの土地を、ジョゼフ=ウージェーヌ・ラリューが買い取った。さらに彼は、1841年、別の所有者の手に渡っていた3分の1の土地も買い入れ、1694年以来、ばらばらになっていたドメーヌの土地は、ようやく一つにまとまったのだ。彼はオー・ブリオンの発展に尽力し、多大な功績を残した。その甲斐もあって、1855年、オー・ブリオンは、【ラトゥール】、【ラフィット】、【マルゴー】といった高級シャトーと肩を並べ、堂々と第1級に格付けされたのだ。
その後、1880年代の末期のフィロキセラの大流行を何とか乗り切ったのだが、また財産の分配などを巡って、揉め事が起こってしまう。エキセントリックな性格で知られていたアンドレ・ジベールが所有権を買い取り、彼は1929年の経済恐慌による混乱期を見事に守りきった。しかし、彼には後継者がいなかったため、オー・ブリオンをボルドー市に寄付することも考えたのだが、市は維持費の高さを理由にこれを拒否したこともあった。
1935年、クラレンス・ディロンがオー・ブリオンの買い手として名乗り出る。財務家として、またスポンサーとして手腕を振るったディロン家は、先見の明によって最新技術を次々と導入、低迷していたシャトー・オー・ブリオンを蘇らせ、今日の栄光を揺るぎないものとした。
|
オールドビンテージ・ドットコムは、チーズの専門店「オーダーチーズ・ドットコム」、チーズスクール「東京チーズアカデミー」と
|
|||||
|
|||||