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トップ > メドック地区 第2級のビンテージワイン > シャトー・レオヴィル・ポワフェレ[シャトーの歴史]
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シャトーの歴史 |
レオヴィル・ポワフェレの歴史は1638年まで遡る。その当時、この一帯は開拓者ジャン・ド・モワティエの名前に由来した“モン・モワティエ”と呼ばれており、まだ排水作業すら行われていなかった時代のことである。
1740年、婚姻によって貴族であったレオヴィル家のアレクサンドル・ド・ガスクに所有者は代わった。彼の死後からフランス革命まで、様々な所有者の手に渡ってきたのだが、当時はこの畑を分割して販売することが出来なかったため、メドックの中でも最大の葡萄畑であり続けた。
規模の大きさだけではなく、“特に優れた葡萄を生み出す畑”としても認められており、有名な1855年の格付け以前の、1745年以降のヴィンテージを対象としたギュイエンヌ地方(ボルドーを含むフランス南西部)の最初の格付けから、すでにレオヴィル・ポワフェレ(レオヴィル・ラスカーズとレオヴィル・バルトンを含む)は第1級に格付けされていた。
その後、この広大な畑は4人の相続人の手に渡ったことから、次第に分割されることとなる。
その一人であったマルキ・ド・ラスカーズが他国へ移民する際に、彼が所有していた畑の一部を国家へと売却、1826年にこれをユーグ・バルトンが買い取り、【レオヴィル・バルトン】というシャトーが生まれる。
さらに、マルキ・ド・ラスカーズの2人の子供は、彼らの叔母が所有していたレオヴィル家の畑の4分の3を引き継いだが、1840年には2つに分割された。ナポレオンの伝記者として、またナポレオン政権下の元帥として有名であった、長男のピエール・ジャンがそのうちの一つを継ぎ、これが今日の【レオヴィル・ラスカーズ】となった。
残りの半分は、ピエールの妹であるジャンヌの娘が所有することになり、彼女がジャン・マリー・ド・ポワフェレ男爵と結婚したことによりシャトーレオヴィル・ポワフェレが誕生した。
3つに分割されて迎えた1855年の格付けでは、いずれのシャトーも2級の格付けと評価されている。
レオヴィル・ポワフェレはその後、エルランジェ男爵と当時の【カントナック・ブラウン】の所有者であったアルマンド・ラランドに売却され、ラランド・ロートン家からキュブリエ家などへ所有者を代えていく。1979年からはキュブリエ家の一人であるデディエ・キュブリエがオーナーとなっている。
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