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トップ > メドック地区 第2級のビンテージワイン > シャトー・ピション・ロングヴィル・コンテス・ド・ラランド[シャトーの歴史]
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シャトーの歴史 |
かつて不毛の土地であったメドックの大部分は沼地で、この地域の開拓が始まったのは17世紀頃のことだった。
ピション・ロングヴィルの歴史は、1686年〜1689年に、ポイヤック村近くのサン・ランベールに“40の砂利が多い良い区画”を開拓したピエール・ド・ムジュール・ドゥ・ローザンから始まったと言える。その後、1694年に彼の娘であるテレーズが、当時ボルドーの議会長であったジャック・ドゥ・ピション・ロングヴィルと結婚してから、このブドウ畑の名声は高まっていくこととなる。
1850年、当時のオーナーであったバロン・ジョセフ・ドゥ・ロングヴィルが亡くなり、シャトーは2つに分かれてしまう。彼は生前からこのシャトーを5人の子供に平等に相続させようという考えを持っていた。
しかし、すでに次男は亡くなってしまっていたため、ピション・ロングヴィルの5分の2にあたる部分とワイン作りのための機材は、長男のラウールが一人で相続することとなった。残り5分の3の畑は3人の娘が引き継ぐこととなったが、長女はすでに修道女となり、残りの2人の娘もすでに嫁いでいたため、管理が困難となっていた。
シャトーが分割される前の1818年、次女のヴィルジニーはすでにラランドの王であったコント・アンリ・ドゥ・ラランドに嫁いでいた。彼女は1840年にボルドーの建築家であったデュフォーに依頼し、当時のピション・ロングヴィルの所有地であり、現在シャトーが建つ場所に別荘を建てた。
ラウールが他界する1860年までは、2つのシャトーに分割されていたものの、1つのシャトーとして管理されていたのだが、ブドウ畑とその管理に強い関心を抱いていたヴィルジニーは、独自に管理を行うようになる。2つのシャトーは正式に分裂し、【ピション・ロングヴィル・バロン】とピション・ロングヴィル・コンテス・ド・ラランドの2つのワインが出来るようになった。その後、数々の相続を経て、この2つのシャトーは次第に関係が遠ざかっていった。
ナポレオン3世の命により行われた1855年の格付けでは、どちらのシャトーともに2級とされている。
なお、このシャトー名は、それまでの「ピション・ロングヴィル」に、ラランド王女となった次女のヴィルジニーを表す“ラランドの王女(comtesse de lalande)”が加えられたもの。
1920年、先に起こった第1次世界大戦のため、ブドウ畑は荒れ果ててしまい、競売に出されてしまう。1925年に、当時ボルドーで“クルティエ”と呼ばれるシャトーとワイン商の間を取り持つ仕事を行っていた、エドワードとルイのミアーイ兄弟がこのシャトーを買い取った。
1978年、エドワードの娘にあたる現オーナー、メイ・エリアンヌ・ドゥ・ランクサン婦人がこのシャトーを引き継ぎ、今日に至っている。
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