|
||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||
|
トップ > メドック地区 第5級のビンテージワイン > シャトー・カントメルル[シャトーの歴史]
|
|||||||||||||||||
|
|
|||||||||
シャトーの歴史 |
中世、シャトー・カントメルルは、シャトーから1kmほど離れたメドックの川岸を守る要塞の一つだった。古文書によると、1147年にはすでにカントメルル領主が存在したことを証明している。この一帯でワイン作りが始まったのが1354年のことで、当時のカントメルル領主は「収穫の10分の1の税金」と「ワイン1樽」を支払っていた記録が残っている。
その後、何代ものオーナーへと所有権が移り変わっていくが、16世紀より、ブドウ栽培地の開拓がカントメルルのドメーヌでの主な事業となっていく。17世紀になると、カントメルル家はジロンヴィル、モーカン、ソーヴといったシャトーまで支配するようになった。
1643年、カントゥメルル領主ルイスの弟がソーヴ城に住み、そこをシャトー・カントメルルと命名、本格的にブドウ栽培を行うようになる。
1855年、ナポレオン3世は、フランスの豊かさを世界に見せるためにパリ万博を開催する。ボルドー商工会議所は、ワインの格付けを行うための準備を行うこととなり、仲買人組合に68の赤ワインの銘柄リストと21の白ワインの銘柄リストを提出し、ワインの売価によって5級のクラスとそれ以下の3つのクラスに分けるよう提案した。
しかし、オリジナルリストには、最初はカントメルルの名前は記載されておらず、後からようやく「カントメルル、ヴィルヌヴ・ドュルフォル婦人、マコー」と追加されたのだが、カントメルルは格付け対象から外されてしまっていた。
これは、当時のカントメルルが、ボルドーの仲買人を通さずオランダの買手と直接交渉したため、その売価を知らなかったためだった。
しかし、現実にはカントメルルは町を代表するワインを作っており、オランダでの評判が高かったことは間違いなかった。同時に5級に格付けされた他のシャトーのワインよりも、実際に高い価格で取り引きされていた記録が残っており、その資料を揃えて組合へ提出すると、リストへの追加の要求が認められた。
1855年9月、まだ万博開催中に、カントメルルは5級クラスとしてリストに加えられることになった。この歴史あるリストが変更になったのはこれが最初のことで、2度目は1973年に【ムートン・ロートシルト】が1級クラスに格上げされた時、わずかにこの2つしか例がないことなのだ。
1867年の万博の際には、シャトー・カントメルルはワインの出来の良さを評価され、銀メダルを授与されている。
1879−1887年、シャトーはフィロキセラとべと病の危機に瀕し、年間生産量が半減してしまう。被害が甚大だったサン・ジュリアン、ポイヤック、サンテステッフなどと比べると、まだ混乱は少ない方だったため、1884年にはポイヤックの1級シャトー【ラフィット・ロートシルト】よりも、カントメルルのワインの方が高値で取り引きされた記録も残っている。
しかし1892年、シャトーはデュボス家に売却され、300年間続いたヴィルヌヴ・ドゥ・ドュルフォル家の支配は終わりを告げることになった。
購入者となったテオフィル・デュボスは、カントメルルのブドウ栽培者であり、同時にメドックのクリュ・クラスの労働組合副長であり、1914年に売られることになるデュボス・フレール社の仲買人でもあった。彼の死後、息子ピエールとベルナルがカントメルルを1923年まで共同相続し、その後はピエールのみが所有者となった。
1930年から始まった戦争の間、いくつかのワイン区画でぶどうが引き抜かれ、1945年からは25haほどしか栽培出来ず、その状態が1981年まで続く。そして同年、シャトーは建築共済組合と建設省に売却された。
|
オールドビンテージ・ドットコムは、チーズの専門店「オーダーチーズ・ドットコム」、チーズスクール「東京チーズアカデミー」と
|
|||||
|
|||||