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トップ > ポムロール地区 特級クラスのビンテージワイン > シャトー・ボールガール[シャトーの歴史]
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シャトーの歴史 |
ボールガールの歴史は12世紀、シェヴァリエ・ホスピタリエ・ドゥ・サン・ジャン・ドゥ・エルサレムの代まで遡る。彼はポムロールの地で様々な活動を行った人物で、ポムロールには彼の屋敷があった。現在のシャトーに造りかえられたのは、ナポレオン統治の時代となる。
18世紀中頃、ジェローム・ドゥ・ショッサード・ド・シャンドがこのシャトーを相続する。1755〜1769年の間、彼の息子であるリュック・ジェルメがこのシャトーに住んだ際、それまで様々な作物を植えていた畑をブドウだけにすることとし、フランス革命の際には6.3haのブドウ畑を所有するまでになっていた。
彼は友人であったジャック・カノン(後にサンテミリオンのシャトー【カノン】の所有者となる)と共に、ブドウ栽培に真剣に取り組んだ。彼の功績で、ボールガールはポムロールで最も大きなブドウ畑を持つシャトーの一つとなった。
1793年、リュックとその3人の姉妹に父親の財産が分配されたが、全員が売却する道を選ぶ。ボールガールの価値は110,000リーブルまで高騰し、ボナヴァンチュール・ベルトミューの手に渡った。
ベルトミューはサンテミリオンに住んでいた富豪で、ワイン以外に穀物取引なども手がけながら、ボールガールと彼の兄弟が所有していたフロンサックのドメーヌの管理も行っていた。フランス革命も終了し、ようやく生活が安定し始めたことにより、彼は徐々にブドウ畑の拡張へと取り掛かった。
50数年後、初めてのワインに関する格付けが行われた際、ボールガールのワインは他のシャトーと肩を並べるほどの評価は得られなくなっていた。これはベルトミューの子孫であるバーリー・ベルトミューのワイン作りの失敗によるものだった。
彼は、沖積土はブドウの栽培には向かないと考え、1820〜1830年代はワインの価格が落ち込んでいたこともああり、茜の栽培に力を注いでいた。しかし、メキシコから持ち込まれたカイガラ虫が茜に壊滅的な被害を与え、輸出禁止処分などを受けたため、大きな損害となってしまった。これはシャトーの財政面に被害を与えただけでなく、ワインの評判をも落とす結果ともなった。
ちなみに、サンテミリオンのシャトー【フィジャック】のアンドレ・ドゥ・カルル・トラジェは、バーリーが茜の栽培拡大を決定した時、ちょうど栽培を止めることにしたため、その被害を免れられ、後の繁栄に繋がった。
このような事情から、1841年に「Le Producteur」という新聞で、ボールガールは3級として格付けされることになった。
1854年、ボールガールはデュラン・デスグランジュに売却された。ワインの仲買人をしていた彼はすぐにシャトーの修復に取り掛かり、畑をブドウに植替え、14haに拡張する。その結果、1868年に「Cock and Feret」のセカンド・エディションでは、ボールガールはポムロール第13番目のシャトーに位置付けられた。
1920年までデスグランジュ家が所有していたが、1922年、この地方で弁護士をしていたブリュレが、彼の名付け子であるアンリエット・ギローのために購入する。アンリエットはその後、スッサンにあるシャトー【ラ・トゥール・ドゥ・モン】を所有するレイモン・クローゼルに嫁いだ。
彼女らの4人の子供は、1991年までボールガールを所有していたが、シャトーはクレディ・フォンシエ・ドゥ・フランス社に1億フランで売却された。
クレディ・フォンシエ・ドゥ・フランス社は、ジロンドのいくつかのシャトーを長期間所有している企業だ。ソーテルヌの【バストゥール・ラモンターニュ】(1936年購入)、グラーブの【サン・ロベール】(1879年購入)、ブルゴーニュの【ピュリニー・モンラッシュ】、リュサック・サンテミリオンの【バルブ・ブランシュ】も同社の所有であり、ボールガールも同社の傘下で発展を続けていくことになる。
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